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本多雅人(東京教区 蓮光寺住職、親鸞仏教センター嘱託研究員)
“今、いのちがあなたを生きている” 1回目 [2005.8.]音声を聞く

おはようございます。「今、いのちがあなたを生きている」という宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌テーマは、今、ここにある、私たち一人ひとりのいのちの有様を的確に表現したものであり、永遠普遍な真実を表しているといえるでしょう。私のいのちといっても、限りあるいのちを成り立たせているはかりしれない背景なしに、私たちのいのちは存在しえないのではないでしょうか。
私たちは突然生まれてきたわけではなく、たくさんの縁が実って生を受けているわけです。事実、私たちは、親から生まれたのですが、その親にも親がいて、その親にも親がいて・・・というように、いのちは、はるか宇宙のはじまりからの様々ないのちの営みによって成り立っていることに気づかされます。私たち一人ひとりのいのちは、あらゆる縁がここに結実して与えられているのです。たったひとつ縁が欠けても、この自分はここに存在しないのです。あらゆるものに囲まれて私たち一人ひとりが存在しているのです。あらゆるものが、この私のために関わってあるのです。そういう本当に尊いいのちをいただいているのです。
このことを、現在教学研究所の所長をしておられる小川一乗先生は、「大海と波」のたとえでわかりやすくお話しされています。「大海」とは大きな海と書きます。「波は私たち一人ひとりです。波がどうしておこるかというと、海があるからです。海は深くて広くてはてしない無量寿としてのいのちです。その海が波を起こしているのです。ところが、波は一瞬にして消えてしまいます。それが私たちです。では、波が消えたら、どうなるのでしょうか。波はただ海に帰るだけです。ですから、私たちは、海がいま波となっているように、無量寿、はかりしれないいのちが、ただいまの私のいのちになっているということなのです。そして、波は消えて海に帰る。それと同じように、無量寿からもらったいのちは、無量寿に帰るのです。」と、このように教えてくださいます。無量なるいのちがこの私にまでなって、今、ここに、私の存在があるのです。
しかし、現実の私たちはどうでしょうか。多くの場合、いのちというと、私たちが生まれてから死ぬまでのいのちと考え、いのちを我が物としているのではないでしょうか。自分の欲望や願望が優先して、私という存在の「ある」ことが見失われ、迷うことも許されず、ただ私が何を「する」のか「できる」のかということだけが絶対的な価値として評価されることにより、私たちは人間存在そのものの尊さを見失い、人間そのものまでを便利な道具としてモノのようにしてしまっています。このような人間観を持ちながら、様々な人間関係の中で、誰もが孤独感と虚無感に苛まれ怯えながら、本当に生きたという実感を持てないまま浮き草のように流されているのが私たちの姿ではないでしょうか。
だからこそ、「今、いのちがあなたを生きている」と無量寿の世界からのよびかけが、大切なテーマとなってくるのです。この無量寿なる世界を、親鸞聖人は、浄土の世界、本願念仏の世界、阿弥陀如来の世界といただかれました。その広大無辺の「いのち」(無量寿)が、今、ここに私たち自身になって生き続け、私たちの迷いを破ろうとはたらきつづけているのです。私がいのちを生きているのではありません。いのちが、この私を生きているのです。無量寿のいのちが、この限りある、有限な私にまでなって生きてきたという歴史的事実に目覚めて、どんな自分でも引き受けて自分を尽くして生きることが願われているのです。あらゆることが無量寿のいのちの中にあると頷けるなら、自分のとらわれを離れたいのちの喜びが無条件に回復されてくるのではないでしょうか。だからこそ、苦悩することすら生きている証拠として、安心して迷っていけるのではないでしょうか。そして誰もが同じいのちを生きる尊い存在、つまり同朋として手をとりあっていける世界が開かれてくるのでしょう。
このことが具体的にどういうことなのか、次回から生活実感を通してお話ししていきたいと思います。

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