正信偈の教え-みんなの偈-

この世間に生きる私たち

【原文】
五 濁 悪 時 群 生 海
応 信 如 来 如 実 言

【読み方】
五濁ごじょく悪時あくじ群生海ぐんじょうかい
如来如実にょらいにょじつみことを信ずべし。


 親鸞聖人は、「如来、世に興出こうしゅつしたまうゆえは、ただ弥陀本願海ほんがんかいを説かんとなり」(如来にょらい所以しょい興出世こうしゅっせ 唯説ゆいせ弥陀みだ本願海ほんがんかい)と詠われました。
 釈尊がこの世間にお出ましになられたのは、たまたまのことではなくて、それはただただ阿弥陀仏の本願のことを世間の人びとに教えようとされたためであったと、このように親鸞聖人は受けとめられたのです。
 釈尊がお出ましになられた世間というのは、どのような世間なのでしょうか。それは、とりもなおさず、私たちが生きているこの世間なのです。それでは、私たちが生きているこの世間とは、どのようなところなのでしょうか。
 釈尊は、『阿弥陀あみだきょう』のなかで、この世間のことを五濁ごじょく悪世あくせであると教えておられます(聖典133頁)。すなわち、五つもの濁りがある、ひどい世の中ということです。私たちが生きているこの世間は「五濁悪世」であり、私たちが生きているこの時代は「五濁悪時」なのです。
 私たちは、この世間が何の問題もない立派な世間だとは思っておりませんし、また、まことにいい時代だとも思ってはおりません。だからといって、「五濁」だとはっきり認識しているかというと、どうもそうではなくて、この世間にもこの時代にも愛着を感じているのではないでしょうか。そして、悪い世の中、悪い時代だと言いながら、誰かに何とかしてほしいと思い、もっといい時代になってほしいものだと、身勝手なことを考えているのです。まったく不確実な期待をいだいて、事実から目をそらせているのです。
 私たちが愛着を感じているこの世間は、釈尊の澄みきったまなこでご覧になると、実はひどく濁りきったところなのでしょう。また親鸞聖人は、ご自分を厳しく見つめられて、「罪悪ざいあく深重じんじゅう」(聖典626頁)と見きわめられましたが、ご自身が生きられたその日々を、どうしようもなく濁りきった毎日と受けとめられたのだと思われます。
 「五濁悪時の群生ぐんじょう」といわれる「群生」は、「衆生しゅじょう」と同じ意味の言葉で、「あらゆる生きもの」ということです。インドの言葉が中国語に翻訳されるときに、翻訳者によって用いた訳語が異なったわけです。「群生」も「衆生」も、さしあたっては、私たちのことを指しているのです。
 「五濁悪時の群生」、つまり五濁といわれる悪い時代に生きている私たちは、いったいどうすればよいのか。それについて、「正信偈」には「如来如実のみことを信ずべし」(応信おうしん如来にょらい如実言にょじつごん)と詠われています。すなわち、五濁の悪時に生きる私たちとしては、ありのままの事実(如実)をお説きになられた如来のお言葉を信ずるほかはないのだと、親鸞聖人は教えておられるのです。
 この場合の「如来」は釈尊のことですから、「如実の言」というのは、『仏説無量寿経ぶっせつむりょうじゅきょう』に説かれている釈尊のお言葉です。つまり、阿弥陀仏の本願について教えられた釈尊のお言葉なのです。
 先ほどの「群生」という言葉に「海」の字が添えられていますが、これは、前の句の「本願海」という言葉と関連していると見てよろしいでしょう。阿弥陀仏の本願が海のように深く広いものであり、群生は海のなかの生きものほども数が多いことから、関連させておられると理解することもできると思います。
 しかし、海はあらゆる生命の源です。生きるための依り処です。広大な本願の海が、そのまま、そこでなければ生きものが生きられない群生の海なのです。どう見ても、なさけない生きものとしか言いようのない私が、本当に「いのち」あるものとして生ききれるのは、阿弥陀仏の大きな願いのなかに包まれている自分自身に気づかされることによるのだと、聖人は教えておられると思うのです。
 なお、「五濁」の内容については、紙幅の関係で今回は述べられませんでしたので、次回に少し詳しくふれることにしたいと思っています。

大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘

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