正信偈の教え-みんなの偈-

本願のかたじけなさ

【原文】
本 願 名 号 正 定 業
至 心 信 楽 願 為 因

【読み方】
本願ほんがん名号みょうごう正定しょうじょうごうなり。
至心ししん信楽しんぎょうの願をいんとす。


 親鸞聖人は、「正信偈」をお作りになるに際して、まず、阿弥陀仏の徳を讃えられています。阿弥陀仏は、仏に成られる前、法蔵ほうぞうという名の菩薩であられましたが、菩薩は仏に成って一切の人びとを救いたいという、格別の願いをおこされたのでした。
 それは、深く悩み苦しみながら生きなければならない私たちを救おうとされた願いなのです。目先の出来事に心を奪われて、苦悩している自分の事実すら見失っている私たちを救いたいという願いなのです。
 法蔵菩薩がそのような願いを発され、その願いが実現したことによって、法蔵菩薩が阿弥陀仏に成られたのですが、そのことを讃えてあるのが、「正信偈」の「法蔵ほうぞう菩薩ぼさついん位時にじ」という句からはじまる「依経段えきょうだん」といわれている部分です。『大無量寿経だいむりょうじゅきょう』というお経に依って述べてある段落ということです。そしてその「依経段」のはじめの十八句が「弥陀章」といわれている偈文ですが、今回の「本願ほんがん名号みょうごう正定しょうじょうごう」以下の四句は、その「弥陀章」の結びとなるもっとも大切な偈文です。
 「本願の名号」といいますのは、「南無阿弥陀仏」のことです。法蔵菩薩は、どのような人もすべて救いたいと願われたのです。もし、すべての人びとを救うことができないのであれば、自分は仏には成らないと誓われたのでした。そして、法蔵菩薩のこの誓願せいがんは成就したのです。つまり、「南無阿弥陀仏」という名号みょうごうを私たちに与えることによって、私たちが苦悩から救いとられて、間違いなく浄土へ往生することが明確になったのです。それで、菩薩は阿弥陀仏に成られたわけです。
 阿弥陀仏の本願は、私たちが生まれてくるよりも前から、もともと私たちのために立てられている願いなのです。そして、その本願は現に私たちに対してはたらき続けているのです。そのことに気づいていない私たちを目覚めさせるために、「南無阿弥陀仏」が私たちに施し与えられているのです。すがたのない本願が「南無阿弥陀仏」という、私たちがいつでも、どこでも称えられる名号として、私たちに差し向けられているというわけです。
 そのような「南無阿弥陀仏」が、まさしく、私たちの往生を確定させるはたらきとなるのです。それが「正定の業」ということです。与えられている「南無阿弥陀仏」をありがたくいただいて称えることが、自分の力では悩み苦しみから脱け出せないでいる私たちの救いの原因となるということなのです。
 この本願の名号が、私たちの救いをまさしく確定させるためのはたらきとなるのは、実は、法蔵菩薩が立てられた願いが原因となっているからです。すなわち、法蔵菩薩が立てられた四十八の誓願のうち、「至心ししん信楽しんぎょうの願」といわれる第十八願(聖典18頁)が、私たちの往生の直接の原因となっているのです。
 すべての人びとが、法蔵菩薩の建立こんりゅうしようとされる浄土に生まれることを求め(欲生よくしょう)、心を尽くして(至心)、そこに生まれることを信じて願い(信楽)、そのことを念じたとして、もしも、その人びとが往生できないのであれば、自分は仏には成らないと、法蔵菩薩は誓われたのです。それが第十八の誓願です。
 本願の名号、つまり「南無阿弥陀仏」によって、私たちが往生することが、まさしく確定しているのは、とりもなおさず、法蔵菩薩の第十八の願いが成就して、阿弥陀仏に成られたからなのです。
 ありがたいことに、私たちは、何とかして助けたいという深い願いがはたらいている世界に生まれてきているのです。しかし、私たちは、そのような願いに応えようとしないのです。また、応えることができないのです。そのような私たちのために、さらにありがたいことに、「南無阿弥陀仏」が届けられているのです。それなのに私たちは、自分の都合にこだわって、「南無阿弥陀仏」を軽んじてしまいます。
 何ともなさけない私たちに、親鸞聖人は、これらの偈文によって、「本願のかたじけなさ」(聖典640頁)を教えておられると思われるのです。

大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘

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