宗祖としての親鸞聖人に遇う

自己とは何ぞや

(名畑 直日児 教学研究所研究員)

自己とは他なし 絶対無限の妙用に乗托して任運に法爾にこの境遇に落在せるものすなわちこれなり

(『清沢満之全集』〈大谷大学編、岩波書店刊、以下『全集』〉第八巻三六三頁)

 これは、清沢満之(一八六三~一九〇三)が、『臘扇記』(一八九八年八月)に記した一連の文章の中にある一節である。当時満之は、人間関係に悩み、また肺結核を煩いながら、現実に差し迫る「死」を前にしていた。その中にあって人生の意義(「死後の究極」)を尋ね、畢竟「不可思議」であるということから、真実の自己は、絶対無限の妙なる働きに乗托して、現前の境遇に落在せるものであると決着したのである。ここに念仏への目覚めが表現されているといえる。
 念仏への目覚めが、「自己とは何ぞや」という問いとともに表現されている。この問いはわが身への深いまなざしと自覚をうながしていく響きをもっているといえるだろう。もちろんこの一文は、満之自身が記したものだが、同時に満之を超えたものとして、以後の満之を導き、そして今の私たち一人ひとりに問いかける。
 この一節の後には、次のような内容が続いている。

絶対吾人に賦与するに善悪の観念を以ってし避悪就善の意志を以てす。いわゆる悪なるものもまた絶対のせしむる所ならん。しかれども吾人の自覚は避悪就善の天意を感ず。これ道徳の源泉なり。吾人は喜んでこの事に従わん(同上)

ここに善悪の観念が与えられることが記されている。満之は「無限の境界には善悪なし」(『全集』第二巻一二六頁)としているが、冒頭にみた一節は、善悪を超えた不可思議なる世界、真実によって自我分別が破られる世界を意味する。その善悪を超えた世界から、今度は善悪の観念が開かれると記される。
 この善悪について、満之は「吾人をして絶対を忘れざらしむるものこれ善なり」として、念仏(絶対)への目覚めを善悪の基準としている。ここには念仏する歩み、念仏する生活(願生浄土の道)が示されているのである。
 善悪を超えた世界から善悪の世界へと転換していくというのは、自己に本来そなわる関係存在(同朋)への眼を開いていくことを意味する。

 

有限無限の関係はついに吾人が無限に対する信仰を発得せしめ、他力信仰の結果は吾人の同朋に対する同情となり、同情の開展する所は道徳を策進して真正の平和的文明を発達せしむるに至るべきなり、

(「他力信仰の発得」『全集』第六巻二一五頁)

自己への深い眼は、自己に本来そなわる同朋への眼を開く。自己への眼差しが、狭い自己に閉じこもるのではなく、同朋への世界を開いていく。また同朋ということが、観念の中に閉じこもるのではなく、自己への目覚めを伴ったリアルな内容として頷かれてくることが示されている。

 昨年(二〇一三)は、満之生誕百五十周年の年にあたり、満之の出現の意味が改めて確かめられる。ここで示される同朋への眼をもう一度確かめ直していきたいと思う。  

(『ともしび』2014年1月号掲載)

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