宗祖としての親鸞聖人に遇う

「飛躍する偶然性」

(藤井 祐介 教学研究所嘱託研究員)

九鬼周造は著書『「いき」の構造』で知られる哲学者である。九鬼は一九三五(昭和一〇)年に発表した『偶然性の問題』の結論において、突然に『浄土論』に言及している。九鬼は『浄土論』のうち「観仏本願力遇無空過者」(聖典一三七頁)を引いて、次のように述べている。

〔略〕「遇ふ」のは現在に於て我に邂逅する汝の偶然性である。「空しく過ぐるもの無し」とは汝に制約されながら汝の内面化に関して有つ我が未来の可能性としてのみ意味を有つてゐる。不可能に近い極微の可能性が偶然性に於て現実となり、偶然性として堅く掴まれることによつて新しい可能性を生み、更に可能性が必然性へ発展するところに運命としての仏の本願もあれば人間の救ひもある。〔略〕(『九鬼周造全集』第二巻、岩波書店、二五九―二六〇頁)

九鬼にとって偶然性は動きのない、静止したものではない。偶然性は、必然性へと飛躍する、動的なものとして語られている。このような偶然性の解釈に関連して興味深いことは、九鬼が「自然」をも動的なものとして理解していることである。田中久文氏によれば、

「九鬼は既に『偶然性の問題』において、偶然と必然とをつなぐものとして『自然』や『運命』というものを問題にしていたが、この『自然』というものが晩年の九鬼の思索の一つの中心になっていく」(田中久文『九鬼周造』、ぺりかん社、一五八頁)。

九鬼は「日本的性格」において、日本文化の特色の一つとして「自然」を挙げ、次のように述べている。

〔略〕自然に従ふといふことは諦めの基礎をなしてゐる。
〔略〕なほ親鸞に「自然」といふ思想があるのもそこから理解することができる。〔略〕行者のはからひでなく自然の利益であるからそこにおのづから諦念が湧いて来るのである。〔略〕(『九鬼周造全集』第三巻、二八三―二八四頁)

ここでは「諦念」との関係において「自然」が静的なものとして語られている。だが、一方、九鬼は、「自然」のうちに「生きる力の意気といふ動的な迫力」をも見る。「自然」には静的な面と同時に、動的な面もあると言うのである。

〔略〕自然とはおのづからな道であつた。道はたとへおのづからな道であつても苟くも道である以上は踏み行かなければならぬ。その踏み行く力が意気である。〔略〕(同上、二八六頁)

先の『偶然性の問題』では前後の文脈に関係なく、実に突然に『浄土論』が引かれていた。なぜ、『浄土論』なのだろうか。――ここからは推測になるが、親鸞聖人の言葉に触発されて、九鬼は偶然性を動的なものとして理解したのではないだろうか。「自然」についての理解が先にあって、その後、偶然性を動的なものとして理解しているかのようである。『偶然性の問題』に『浄土論』が引かれていることも九鬼が親鸞聖人に遇ったという一事を念頭に置かなければ、説明がつかないように思われる。

(『ともしび』2010年1月号掲載)

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