宗祖としての親鸞聖人に遇う

本当の自分

(太宰不二夫 教学研究所嘱託研究員)

今から十五年ほど前のことだったと思う。当時大谷大学で仏教学を学んでいた私は、真宗学の講義を受けたり本を読んだりするうちに、一つの疑問に突き当たった。端的にいえば「真宗の何処に救いがあるのかわからない」という疑問だった。
仏教学の方では、救済の筋道が、それぞれの宗派の教義に応じて明解に説かれている。ところが真宗学では、それよりも「機の深信」(救われぬ身であることの自覚)が大切だと教えられる。しかし私には「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」(聖典二一五頁)とか「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」(聖典六二七頁)という自覚の何処に救いがあるのか、全く理解することができなかった。それどころか、私は真宗という教えに言いしれぬ暗さを感じながら、「これが信心の内容であるなら、こんなものは必要ない」とまで思っていた。
ある時、たまたま実家の母親から用事の電話があった。そこでその際に、この疑念をそのまま母親にぶつけてみた。

「なぜ機の深信が救いなのか、俺には理解できない。親鸞聖人は地獄一定といわれるが、それが事実だとしても、はっきりしてもらったら困る。そんなことがはっきりしたら、むしろ人生が怖くなるばかりじゃないか。真宗の教えは人間を暗くする教えなのか」。
すると母は即座に怒りの声を上げた。
「お前はバカだなあ!機の深信は一番肝心なことじゃないか。その一番肝心なことが分からないようなら、学費を出す甲斐もない。今すぐ大学を辞めて家に帰ってきなさい!」。
母の激昂ぶりに虚を衝かれた思いをしたが、その後の言葉に、さらに驚かされた。
「いいかね、地獄一定とは本当の自分のことでしょうが!本当の自分がわからなければ、何をやっても、何をいっても、全部が嘘っぱちじゃないか!全部がごまかしじゃないか!」。

胸に突き刺さる痛い叱責であった。真宗の教えを受け取ろうともせず、いろいろ理屈を並べて御託をいっている自分が、あらゆることをごまかして生きている当人であることを暴き出された思いがした。暗いのは教えの方ではなかった。自分の心こそが暗かったのである。
後日、安田理深先生の「本当のことがわからないと本当でないものを本当にする」という言葉を目にした時、母の叱責を思い出さずにはおれなかった。真宗の教えに出遇って、それに導かれて本当の自分がわからなければ、自らの妄想が立てた自分を本当とし、この妄想した自分を守り通すために、嘘とごまかしで生きる他はない。母は「お前はそういう人生をおくるつもりなのか!」と、我が子を本気で叱ってくれたのだった。正直にいえば、「宗祖としての親鸞聖人に遇う」とはどういうことなのか、今の私にはよくわからない。しかし真宗の教えがどういう教えであるのかについては、この時に初めて理解できたように思う。

(『ともしび』2008年12月号掲載)

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