宗祖としての親鸞聖人に遇う

親鸞が出遇った釈尊

(小川 一乘 教学研究所所長)

宗祖親鸞聖人はどこで釈尊と出遇ったのであろうか。もとより、様々な仏典によって教主世尊・大聖としての釈尊を遙かに礼拝していたであろうが、直接的には『無量寿経』において出遇ったにちがいない。同経では、まず聴衆として、釈尊の直弟子たちの名前が列挙され、続いて、大乗の菩薩たちの名前が列挙された後に、釈尊の生涯が伝記(仏伝文学)に基づいて説かれている。その内容は、言葉の限りを尽くしての賛嘆に満ちあふれている。
ちなみに、この釈尊の伝記の部分は、現存する同経のサンスクリット原典にはなく、漢訳の際に挿入されたのであろうが、この挿入はきわめて重要であったと考えられる。そこには、大乗の菩薩たちへの釈尊の授記によって浄土への往生が説かれるという漢訳者の了解が込められていると見なされるからである。原典の場合は、ここに釈尊の伝記がなくても、そこには自明なこととして釈尊は絶対的な存在としてあり得ていたのであるが、漢訳ではそのことを明示し、かれら大乗の菩薩たちは、釈尊の授記を得た菩薩たちであることを再確認しておく必要があったということであろう。
ここに説かれている伝記は、大方の伝記にならいながら、要を得て巧みに釈尊の生涯を辿りつつ、釈尊が群生を荷負する大乗の菩薩たちにとっての大聖であることを説き、釈尊から記別を授けられた菩薩たちがここに来会していることを示すためである。そのような手続きを経て、まさしく同経の主題である本願について、阿難の問いが起こされることになる。
ところで、ここに説かれている釈尊の伝記の記述において注目しなければならないのは、大乗経典、特に浄土経典であるが故の大切な記述が含まれていることである。それは、

成等正覚,示現滅度,拯済無極。(釈尊は「覚り」を成し遂げられ、その入滅においては大般涅槃を示現されたけれども、救済されなければならない衆生に極まりがない)(聖典四頁)

という、大切な一文である。
この一文の中の「成等正覚示現滅度」は、宗祖の『正信偈』において、

成等覚証大涅槃(「覚り」をなし、大涅槃を証することは)(聖典二〇四頁)

と詠まれている一文とまっく同意である。「等正覚」とは、釈尊の「覚り」のことで、「等覚」「正等覚」とも漢訳されるsamyaksambodhi(三藐三菩提)の意訳である。「滅度」とは「大般涅槃」「大涅槃」「無上涅槃」のことに他ならない。従って、『正信偈』における、

成等覚証大涅槃必至滅度願成就(同右)

は、「釈尊が「覚り」を成し遂げられて、その入滅において大涅槃を証明され、滅度を示現されているから、私たちを必ず滅度に至らしめるという本願はすでに成就されている」と了解されるべきではなかろうか。しかしこれまでのところ、この句が釈尊自身のこととして解釈されていないようであるが、私はここに宗祖が出遇った釈尊を看取するのである。

(『ともしび』2008年11月号掲載)

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