宗祖としての親鸞聖人に遇う

歴史を生きる

(名畑直日児 教学研究所助手)

西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈、遇いがたくして今遇うことを得たり。聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。真宗の教行証を敬信して、特に如来の恩徳の深きことを知りぬ。ここをもって聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。
(『教行信証』総序聖典一五〇頁)

この度、二〇〇七年度の伝道講究所において、テーマ「真宗同朋会運動に学ぶ」の下に、福嶌和人当所嘱託研究員による「真宗史に学ぶ」と題する講義を中心とした研修をうけた。私自身はスタッフとして関わり、特に「歴史に学ぶ」という内容について考える機会を得た。講義では、歴史とは、年表のように、単なる過去の事実の集積ではなく、そのような過去とは違う現在を知ることであり、それは畢竟、自分自身を知ることであるとあった。普通に考えられる歴史を外から眺めるのではなく、今現在、自分自身が歴史を生きていることを意味していた。
しかし、自分が歴史的存在として生きていると言われても、そのような感覚は正直ない。年齢の違いによって変わってくるのかもしれないが、歴史とは頭の中で考えた観念に過ぎないと思えた。
そのようなことを確認しながら、歴史とは自己を知ることであるとあったことから、自分が今、この「衣」を着ているのは何故なのかということを考えるようになった。それは自分が僧侶であるということであり、同時に自分と仏道との出会いを問うことを意味していた。
私は、仏道との出会いを、明治時代に、求道の一念に生きられた清沢満之を抜きに考えることはできない。清沢満之の、真理を究め、その獲得に生涯を尽くされた姿に、今の自分の言葉では表現できない「御苦労」があることを感ぜずにはおれない。
それと同時に、「真宗大谷派(東本願寺)」の僧侶として生きる自分を考えたとき、清沢満之が宗門の改革に身を投じたこと、そしてその後の宗門が、戦争という苦しい時代を生きたこと、戦後においては、真宗同朋会運動が発足し展開していったこと、それと平行して様々な問題を抱えるという歴史というものが、これまでとは違った響きをもって感じることができるように思えた。
最初に挙げた総序の中にある「西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈、遇いがたくして今遇うことを得たり。聞きがたくしてすでに聞くことを得たり」という中には、自分ではとても担うことができない大きな歴史の課題が背景にあるように思う。と同時にどうしても救わずにはおれない弥陀の大悲に遇い得たことが示されているといえる。そして自分自身の背景にある歴史の課題の大きさが、「如来の恩徳の深きことを知」らしめるはたらきとなっていると思う。
知識の上での歴史ではなく、仏道との出遇いから感得される弥陀の大悲に浮かび上がる歴史の中に、担うものなくして担う歴史の課題があるように思う。

(『ともしび』2007年12月号掲載)

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