宗祖としての親鸞聖人に遇う

越後での家庭生活

(上場 顯雄 教学研究所嘱託研究員)

仏教各宗の中で真宗は、肉食妻帯、在家仏教と称されるのが特色の一つである。それは特別に滝に打たれるような荒行をしたり、世間との交渉を断って仏道を求 めるのではなく、普通の家庭生活・社会生活を営みながら仏道を歩むことから、そのようにいわれるのである。
 それは仏法を聞き念仏申す身となり、人生を荘厳していくことである。賜った命を人間として日暮らしの中でつくしていくことでもあろう。
 そのゆえんは、宗祖が妻帯され家庭をもつ身で「教え」を明らかにされたからである。否、家庭をもって「生死する命」をつくす中で、いかに救われていくか が課題であったといえよう。
 宗祖が恵信尼公と結婚された時期について京都説と越後説とがあるが、近年の研究では前者が有力となっている。宗祖の結婚について大きな契機となったの が、六角堂参籠の九十五日の暁に、「聖徳太子の文をむすびて、示現にあずからせ給いて」(恵信尼消息、聖典六一六頁)の夢告である。いわゆる「女犯偈」と いわれる「行者宿報設女犯」以下の四句である。おそらくこの夢告を得た近い時期に宗祖は結婚されたと考える。
 とすれば、承元元年(一二〇七)宗祖三十五歳の時、越後に流罪となるが、少なくとも小黒女房が生まれていたであろう。家族を伴って越後に向われたのであ る。
 宗祖が明らかにされた信仰・思想体系は越後での生活が基本になっていると考えられる。
 比叡山や京都で生活されていた宗祖は、陸路を長距離歩かれ、海路を船に乗られたことなどは初めての経験であったであろう。越後の居多ヶ浜に上陸され国府 で暮らされたのであるが、流人の身であり、役人の監視下であった。
 自らの力で農耕を営み、家族を支えていかなければならない。自然の恩恵にありがたさを感じるとともに、一方で冬は豪雪となり北風の猛吹雪の日が続いたこ ともあったであろう。あるいは荒れる海にも出て魚を追う漁民の姿、山へ入って狩猟をし、生計をたてる人。いわば「殺生」という罪業に直面しながら懸命に生 き抜いている人々を、宗祖は眼のあたりにされたのである。
 また、優しい自然と厳しい自然の中で、互いに支えあい、協力しあっている純朴な民衆、逆に妬み憎しみあう人間どうしの醜い争い等々、一般民衆とともに同 じ家族をもつ日常を営む中で、宗祖はそれらを肌で体得されたのである。
 我々は生まれて生きて死んでいく「生死の命」をつくしている。その限られた命を、「教え」を聞き「化生」(和讃)して人間らしく荘厳していきたいもので ある。それは時を超えた「無量寿」に聞き、目覚めることである。
 宗祖の越後生活を推測する時、我々と同じ視線をもって感得されたことを基盤に「教え」として示してくだったことを身近に感じる。

(『ともしび』2007年 5月号掲載)

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