宗祖としての親鸞聖人に遇う

かのさまたげをなさんひとをば

(山内 小夜子 教学研究所研究員)

京都東山の山麓沿いを流れる疎水の西側の哲学の道はよく知られています。その疎水の一本東側にある住蓮山安楽寺にお参りしました。配流地から帰洛した法然上人が、亡き住蓮・安楽坊の菩提を弔うために鹿ヶ谷の草庵を旧復したと伝えられ、現在の仏堂が建立されたのは一六八一年(延宝九年)と言われています。
「安楽寺縁起絵」には、法然上人の清水寺での説法、鹿ヶ谷草庵での六時礼讃の修法、松虫鈴虫姫の剃髪、住蓮坊の近江国馬淵畷での処刑、安楽坊の六條川原での処刑、法然上人の讃岐国配流など、「建永の法難」の経緯が描かれています。毎年七月の鹿ヶ谷かぼちゃ供養の際に絵解きが行われ、鹿ヶ谷の地で今もその歴史が伝えられています。また、親鸞聖人が東国から帰洛され、最初にこの寺をたずねられたという伝説と共に、聖人の蓑笠が伝えられており、庶民が語り伝えてきた聖人のおすがたが偲ばれます。
当時、藤原定家の『明月記』には「近日、只一向専修の沙汰、搦め取られ拷問さるると云々、筆端の及ぶところに非ず」(承元元年〈一二〇七年〉二月)と記され、後鳥羽院による専修念仏停止の院宣により、住蓮坊、安楽坊、善綽坊、性願坊の四名が死罪、法然上人とその門弟多数が流罪、親鸞聖人もそのお一人でありました。
沙汰され、搦め取られ、拷問、斬首、流罪…。そのことば自体に恐怖の響きがあります。その時を生きられ、その後を生きられた親鸞聖人の苦難をあらためて思います。
親鸞聖人は、念仏の仲間が権力により首斬られ、師も自身も流罪となったこの承元の弾圧に対し「主上臣下、法に背き義に違し」と、激しい糾弾の言葉を残しておられます。
半世紀後の建長の弾圧に際しても、「朝家の御ため国民のため、念仏もうしあわせよ」という言葉と同時に、「余のひとびとを縁として念仏をひろめんとはからいあわせたまうこと、ゆめゆめあるべからずそうろう」(聖典五七六頁)と、まちがっても弾圧を免れようとして権力をたのんではならない、と繰り返し誡められています。
弾圧が一教団に対する権力の発動ならば、それは事件でありいわゆる社会問題です。その弾圧の嵐の後に、念仏の信に生きることができるかどうかという瀬戸際に立たされる時に「法難」という課題となるように思われます。流罪の後を生きられた親鸞聖人が念仏の同行に繰り返し語られたのは、法難によって問われているのは、弾圧された者の信が弾圧者をも包むことができる信かどうか、という点ではないでしょうか。
親鸞聖人が、領家・地主・名主等をさして「かのさまたげをなさんひとをば、あわれみをなし、不便におもうて」と語り、「さまたげなさんを、たすけさせたまうべしとこそ、ふるきひとはもうされそうらいしか。よくよく御たずねあるべきことなり」(聖典五七二頁)と語られた言葉を、もう一度たずねてみたいと思っています。

(『ともしび』2006年12月号掲載)

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