同朋社会の顕現
宗務総長 木越 渉
本年も真宗本廟「春の法要」にあわせていただきます。
さて、私たちの本山「真宗本廟(東本願寺)」の阿弥陀堂・御影堂は、江戸時代の四度に及ぶ焼失を経て、1895(明治28)年に再建され、本年で130年となりました。数多の先人が命がけで相続してくださり、今を生きる私たちが享受している帰依処です。
この130年に及ぶ歳月においては、戦争、自然災害や感染症の流行、経済恐慌など、歴史的な変遷の中で数多の「いたみ」がありました。私たちの宗門においても、1969(昭和44)年から約30年に及んだ「教団問題」という危機に瀕し、本山の両堂や別院が宗派から離脱しかねない事象が起きました。宗門に縁ある者同士が、意見や立場の違いによる衝突、分裂、分断という悲痛な「いたみ」を経験してまでも、全ての宗門人の帰依処として崇敬護持されてきたのです。
そのような危機的経緯を経て公布された「真宗大谷派宗憲」において、宗門運営の第一として、次の言葉が掲げられています。
すべて宗門に属する者は、常に自信教人信の誠を尽くし、同朋社会の顕現に努める。
この「自信教人信」という言葉は、私たちが日頃親しんでいる「正信偈」で「善導独明仏正意」と表される善導大師の言葉です。この言葉を、宗祖が『教行信証』にいただかれる際、その読みを「みずから信じ、ひとを教えて信ぜしむる」と記しておられます。
このことを私なりに申せば、「愚禿釋親鸞」の責任としての表現であろうと思います。稀有最勝の教えに遇えた「ひとり」としての責任。南無阿弥陀仏の声を聞いた、声が聞こえた者としての責任が、自信教人信を「みずから信じ、ひとを教えて信ぜしむる」と読ませたと受け止めています。
この一点を今、相共に確かめたく思います。一体なぜ、自分に南無阿弥陀仏が届けられているのか。その「いわれ」に耳を澄ませることを、あらゆる活動の根底に堅持いたしましょう。そして一つの行事や文章の奥に、どのような「いたみ」や「声なき声」といった背景があるのかを、静かに耳を傾けてまいりましょう。
現代社会は各方面で非常に危うい状況にあります。その中で自分は、我らは、どう歩むのかが常の問題であります。
設い世界に満てらん火をも、必ず過ぎて要めて法を聞かば、会ず当に仏道を成ずべし。広く生死の流を度せん。
(『真宗聖典 第2版』54頁)
と『仏説無量寿経』に著される「いたみ」と、「無窮の志願」を、同じ時代を生きる私たちとして、今法要をはじめ、一つひとつの出来事を大切に紡いでいきたいと願っています。
一人でも多くのご参拝を、心よりお待ちしております。
南無阿弥陀仏
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