聞名 ―届けられしお念仏に促されて―
宗務総長 木越 渉
本年も宗祖親鸞聖人御正忌報恩講をお迎えします。
真宗門徒の一年の計は、「報恩講に始まり、報恩講に終わる」と教えられます。
しかし、日々何かに振り回されて生きる中、仏法を依り処とする生活を忘れてしまう時もあるのではないでしょうか。
かつて念仏総長と言われた暁烏敏氏(一八七七─一九五四)は、「一年三六五日、一日として御恩報謝の日で無い日はない。毎日が報恩講である。その報恩講の最も根本的なるものが親鸞聖人の御恩に対する報恩講である。聖人の報恩講を営むことによって報恩の生活が明らかになるのである」と仰られました。
私たちの宗祖、親鸞聖人は、自らを「愚禿」と名のられました。その名のりが意味するところは、お念仏を忘れる存在である私が、同座するとなりの人が称える念仏の声に促され、自身も念仏申す身となり得たという名のりでもあります。
「南無阿弥陀仏」も、「正信偈」も、誰しも一人で覚えたものではありません。近しい人と手を合わす生活を共にし、その姿を見て、声を聞いて、倣うことから少しずつ覚えていきます。
このように、お念仏の教えを伝承してくださったのは、宗祖お一人ではなく、生活を通して私にまで伝えてくださった無量無数の御同朋です。「正信偈」を唱えると、教えてくれた祖父母や父母、先達の姿や声が、自分を超えて心に届いてくる感覚を抱くことがあります。
其佛本願力(その仏の本願の力)
聞名欲往生(名を聞きて往生せんと欲えば)
皆悉到彼國(みなことごとくかの国に到りて)
自致不退轉(自ずから不退転に致る)
(『仏説無量寿経』巻下、『真宗聖典』四九頁)
仏法は、教えを開いた人のみにあらず、教えを伝えてきた人々の中にあります。
その「聞名」の歴史に連なることができた「稀有なるよろこび」を、あらためていただく知恩報徳の御仏事が、報恩講とも言えましょう。
家族や身近な先輩たちをはじめ、無数の尊い先達の信力や願いによって、現に「南無阿弥陀仏」が伝わり、「帰命無量」の声が、この私に確かに届けられています。
いよいよ明年、待望の「宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃法要」をお迎えいたします。
慶讃テーマ「南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう」のもと、溢れるお念仏の声に促され、あらためて、たまわった「いのち」の深さに思いを馳せ、お念仏の教えが生きる支えとなっていることを発見し、相共に立ち返る御仏事として勤めたいと願います。
一人でも多くの方のご参拝を心よりお待ち申しあげます。
帰命無量寿如来(無量寿如来に帰命し)
南無不可思議光(不可思議光に南無したてまつる)
報恩講の日程等はこちらをご覧ください。