お知らせ

2022年「春の法要」にあたって【宗務総長ご挨拶】

お知らせ
2022.03.18

聞思して遅慮することなかれ

 

宗務総長 木越 渉

 

春は出会いや旅立ちの季節と言われます。

私たちの宗祖、親鸞聖人のご誕生、得度、そして比叡山を下り吉水の法然上人のもとへ赴かれたのは春でありました。

 

明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは

(『親鸞聖人絵詞伝』)

 

この詩は、九歳の親鸞聖人が青蓮院において得度を願われた際、時が既に夜であったことから、得度式は明日にしようとの慈鎮和尚(慈円)の言葉に対して詠まれたと伝えられています。

 

親鸞聖人が自身の命を、いつ散るともしれない儚い桜の花になぞらえ、今を生きることへの問いの大切さを、私たちに教示いただく詩です。

 

私たちは、「朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身」(『御文』第五帖十六通、『真宗聖典』八四二頁)です。命がいつ尽きるとも分からない諸行無常の身を生きていることを、知的には理解しつつも、明日は来るものと思い日々を生きています。

 

世界は現に今も、新型コロナウイルス感染症に晒され、これまでの日常が一変しているにもかかわらず、変わらない私たちのあり様とも言えます。

 

このような私たちの相(すがた)を、宗祖はこう説かれます。

 

弥陀仏の本願念仏は、(弥陀仏本願念仏)

邪見憍慢の悪衆生、(邪見憍慢悪衆生)

信楽受持すること、はなはだもって難し。(信楽受持甚以難)

難の中の難、これに過ぎたるはなし。(難中之難無過斯)

(『教行信証』行巻「正信偈」、『真宗聖典』二〇五頁)

 

大切なのは、「いま現にましまして法を説きたまう」(『仏説阿弥陀経』、『真宗聖典』一二六頁)本願念仏の教えに遇うことです。そこで「そのような在り方でいいのですか」と、自身が問われる。その聞名の歩みこそが必要なのです。

 

私たちの先達は、問いを自身のこととして受け止められました。法に遇われた感動が、阿弥陀仏の相として、南無阿弥陀仏の名号として、私たちにまで届けられているのです。それは今この時も絶えず、私自身が澄まされるべく、呼びかけられている相であり声であります。

 

そうして私たちは、人生のよりどころとなる教えに遇うことを通して、問いをいただき、教えに自身が照らし出されることによって、生きる方向性や原動力を賜ります。

 

私たちが生きる現代は、世界のニュースが、その日の内に手元に届く時代です。多くの情報は私たちが迷う縁でありますが、同時に、私たちが仏法を聞く「縁」ともなります。

 

聞法によって、情報に振り回されている自身の姿が照らし出され、確かなよりどころと方向性を持って、世を問い、自身が問われて今を尽くして生きていきたいものです。

 

来春、いよいよ「宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃法要」をお迎えします。慶讃テーマ「南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう」のもと、宗祖と出あい直し、私にまで届けられた念仏の教えを慶び讃え、恩に謝する歩みを共にして参りたいと願うものであります。

 

 

春の法要の日程等はこちらをご覧ください。

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