4月10日、法務省が死刑囚4名の死刑を執行したことについて、真宗大谷派では4月17日、宗務総長名による宗派声明を発表しました。
死刑執行の停止、死刑廃止を求める声明
4月10日、東京拘置所で2名、大阪拘置所で2名の死刑が執行されました。
私たちは、1998年6月29日以来、死刑の執行がなされるたびに「死刑制度を問いなおし死刑執行の停止を求める声明」を宗派として表明し、教団内はもとより、広く社会に対して死刑制度について論議していくことの大切さを呼びかけてまいりました。しかし、このたび私たちの願いが聞き届けられることなく、昨年の12月、そして本年の2月、そして今回と、引き続いてわずか4ヶ月の間に、あわせて10名もの死刑が執行されたことは、誠に悲しむべきことであります。
私たちは、それぞれの事件に関して、犯罪を憎むあまりに、どうして犯罪を起こしたのか、どうして罪を犯す人間になってしまったのか、ということについて深く考えることのないまま、犯罪者の極刑を望みます。自分自身は決して罪を犯すことがないと無意識のうちに思っているからなのです。私たち人間は、誰でも様々な理由や条件によっては、罪を犯すかもしれない存在であることを、まず認めなければなりません。罪を犯した人の声に耳を傾けることなく、罰のみを求めることは止めなければなりません。こうした応報思想は新たな悲しみを生み出すことはあっても、決してそれによって救われることはありません。
釈尊は「殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ」と教えられています。私たちは、たとえどのような罪を犯した人間、また未だ反省や悔悟の気持ちを表現することにいたらない人間であっても、それを排除することなく、かけがえのないいのちとして尊重することをとおして共に生き合える世界を、阿弥陀如来の本願として教えられています。私たちはその根源の願いに立って、一人ひとりの人間が、いのちの尊厳において見出される社会の実現を願うものであります。
死刑執行を続けることは、私たちの社会が罪を犯した人の立ち直りを助けていく責任を放棄し、共に生きる世界を奪うものです。死刑制度は被害者遺族をも救うことのない制度であり、そればかりでなく、応報感情をあおり、人々を分断する制度であります。加害者の悔悟や反省が成し遂げられることも、被害者遺族の悲しみや怒りが癒されることも、死刑制度を持つ社会では困難です。
私たちは、死刑に関する意見や立場の違いを認め合いながら、遺族の救済のあり方を含め、この制度について論議していく場を開いていかなければならないと考えます。
ここに、あらためて今回の死刑執行に遺憾の意を表明すると共に、今後の死刑執行を停止し死刑制度についての論議が開かれ、死刑廃止に向けての取り組みが進められますよう願うものであります。
2008年4月17日
真宗大谷派宗務総長 安原 晃