8月23日、法務省が死刑囚3名の死刑を執行したことについて、真宗大谷派では8月31日、宗務総長名による宗派声明を発表しました。
死刑執行の停止、死刑廃止を求める声明
8月23日、東京拘置所で2名、名古屋拘置所で1名の死刑が執行されました。
私たちは、1998年6月29日以来、死刑の執行がなされるたびに「死刑制度を問いなおし死刑執行の停止を求める声明」を宗派として表明し、教団内はもとより、広く社会に対して死刑制度について論議していくことの大切さを呼びかけてまいりました。しかし、このたび私たちの願いが聞き届けられることなく、引き続き死刑が執行されたことは、誠に悲しむべきことであります。
釈尊は「殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ」と教えられています。私たちは、たとえどのような罪を犯した人間、また未だ反省や悔悟の気持ちを表現することにいたらない人間であっても、それを排除することなく、かけがえのないいのちとして尊重することをとおして共に生き合える世界を、阿弥陀如来の本願として教えられています。私たちはその根源の願いに立って、一人ひとりの人間が、いのちの尊厳において見出される社会の実現を願うものであります。
現在、私たちの国では、人間の持つ限りない欲望によって、いとも簡単に人が殺されるという事件があとを絶ちません。被害者遺族の悲しみ、怒り、憎しみは、どのような言葉をもってしても表すことができないほど深く、激しいものがあります。殺人という罪を犯した者は、そのいのちを絶つことをもって償うべきであるとの心情は、遺族とすれば当然と言えるかもしれません。また、遺族を思いやる心にあいまって、連日、報道される事件の残忍さも死刑執行、死刑制度の存続を願う世論の高まりにつながっているのでありましょう。
しかしながら、私たちは、どうして犯罪を起こしたのか、どうして罪を犯す人間になってしまったのか、ということについてはあまり考えることはありません。そして、自分自身は決して罪を犯すことがないと無意識のうちに思い、犯罪者を憎み、極刑を望みます。こうした応報思想は新たな悲しみを生み出すことはあっても、決してそれによって救われることはありません。
死刑執行を続けることは、私たちの社会が罪を犯した人の立ち直りを助けていく責任を放棄し、共に生きる世界を奪うものです。死刑制度は被害者遺族をも救うことのない制度であり、そればかりでなく、応報感情をあおり、人々を分断する制度であります。加害者の悔悟や反省が成し遂げられることも、被害者遺族の悲しみや怒りが癒されることも、死刑制度を持つ社会では困難です。
私たちは、死刑に関する意見や立場の違いを認め合いながら、遺族の救済のあり方を含め、この制度について論議していく場を開いていかなければならないと考えます。
ここに、あらためて今回の死刑執行に遺憾の意を表明すると共に、今後の死刑執行を停止し死刑制度についての論議が開かれ、死刑廃止に向けての取り組みが進められますよう願うものであります。
2007年8月31日
真宗大谷派宗務総長 安原 晃