「臓器移植法」に関して、私たち真宗大谷派教団は、1997年に「「臓器移植」法案の衆議院可決に対する声明」において遺憾の意を表し、初めての「脳死臓器移植」(1999年)に際して、この問題が私たち一人ひとりに改めて生と死の意味を問いかけており、このことをとおして広く問題が論議され、「いのちの尊厳」と「生死」の豊かな意味が回復されることを願う旨、見解として示してまいりました。現在もこの姿勢・表明は異なるところではありません。
「脳死」、「臓器移植」の問題は、基本的には、人が生まれ、生き、死んでいくことを、人間の考えで計ることができるという立場が問題となるものであります。そこには、人の死に「種類」があるかのような概念作りや、臓器を「部品」と見るような危うさをはらんでおります。
元来「受けとめること」であった「死」ということを、私たちは傲慢にも、「決めるもの」、「決めることができるもの」と変化させてきました。
親鸞聖人があきらかにされた仏教、浄土真宗は、すべての人が人間であり続ける道であり、そこには、悲しみ、いたみと共に在る、本当の救いというものが示されております。この教えによって、「脳死」、「臓器移植」という問題は他者の生と死の問題ではなく、私たち一人ひとりの生き様が問われる、実に「この私が人と生まれた」というところの問題であると深く知らされるものであります。
このたびの「臓器移植法改正」をめぐる人知の闇の表出に対し、いよいよ、「生のみが我等にあらず、死もまた我等なり。我等は生死を並有するものなり」(清沢満之)という、人間存在の受けとめに立った論議が始まることを念じてやみません。