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1272 | 文永9 | 吉水の北に親鸞聖人の廟堂が建てられ、影像が安置される |
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1321 | 元亨元 | この頃第3代覚如上人、「本願寺」の寺号を公称する |
1457 | 長禄元 | 第8代蓮如上人、本願寺留守職となる |
1465 | 寛正6 | 比叡山の衆徒により本願寺破却 |
1532 | 天文元 |
法華衆徒らに山科本願寺焼かれる 第10代証如上人、石山御坊に移る(大坂本願寺) |
1570 | 元亀元 | 織田信長と本願寺との間で「石山合戦」始まる |
1580 | 天正8 |
第11代顕如上人、織田信長との和議に応じるも、長男教如上人は籠城して抗戦。 大坂本願寺の明け渡し直後、火を放たれ全焼する |
1591 | 天正19 | 豊臣秀吉、本願寺に京都(堀川六条)の寺地を寄進(後に現在の西本願寺へ) |
1593 | 文禄2 |
顕如上人の入滅にともない、三男の准如上人が継職 長男教如上人は秀吉の命により退隠 |
1602 | 慶長7 | 徳川家康、教如上人に京都(烏丸六条)の寺地を寄進(後に現在の東本願寺へ) |
1788 | 天明8 | 京都大火により両堂焼失 |
1823 | 文政6 | 境内からの出火により両堂焼失 |
1858 | 安政5 | 京都大火により両堂焼失 |
1864 | 元治元 | 禁門の変(蛤御門の戦い)による戦火のため、両堂以下諸堂焼失 |
1895 | 明治28 | 両堂落慶 |
1911 | 明治44 | 宗祖六百五十回大遠忌法要 |
1949 | 昭和24 | 蓮如上人四百五十回忌法要 |
1961 | 昭和36 | 宗祖七百回御遠忌法要 |
1973 | 昭和48 | 親鸞聖人御誕生八百年・立教開宗七百五十年慶讃法要 |
1998 | 平成10 | 蓮如上人五百回御遠忌法要 |
2011 | 平成23 | 宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要・東日本大震災被災者支援のつどい |
2016 | 平成28 | 真宗本廟両堂等御修復完了奉告法要 |
2019 | 令和元 | 御影堂、阿弥陀堂、御影堂門、阿弥陀堂門、鐘楼、手水屋形が国の重要文化財に指定 |
真宗本廟(東本願寺)は、当派の宗祖である親鸞聖人(1173~1262)の門弟らが、宗祖の遺骨を大谷(京都市東山山麓)から吉水(京都市円山公園付近)の北に移し、廟堂を建て宗祖の影像を安置したことに起源します。
親鸞聖人の娘覚信尼は門弟から廟堂をあずかり、自らは「留守職」として真宗本廟の給仕を務めました。爾来、真宗本廟は親鸞聖人の開顕された浄土真宗の教えを聞法する根本道場として、親鸞聖人を慕う門弟の懇念により護持されています。
第3代覚如上人(1270~1351)の頃、「本願寺」の寺号を名のるようになり、やがて寺院化の流れの中で、本尊を安置する本堂(現在の阿弥陀堂)が並存するようになりました。こういった経緯により、真宗本廟は、御真影を安置する廟堂(現在の御影堂)と本尊を安置する本堂(現在の阿弥陀堂)の両堂形式となっています。
戦国乱世の時代、第8代蓮如上人(1415~1499)は、その生涯をかけて教化に当たり、宗祖親鸞聖人の教えを確かめ直しつつ、ひろく民衆に教えをひろめ、本願寺「教団」をつくりあげていきました。このことから、当派では蓮如上人を「真宗再興の上人(中興の祖)」と仰いでいます。
京都東山にあった大谷本願寺は比叡山との関係で一時退転し、蓮如上人の北陸布教の時代を経て、山科に再興。その後、大坂の石山(現在の大阪城の地)へと移転しました。しかし、第11代顕如上人(1543~1592)の時代に、織田信長との戦い(石山合戦)に敗れ、大坂も退去することとなりました。この際、顕如上人の長男教如上人(1558~1614)は、父顕如上人と意見が対立し、大坂(石山)本願寺に籠城したため義絶されます。1582(天正10)年に義絶は解かれ、1585(天正13)年本願寺は豊臣秀吉により大坂天満に寺地を与えられ再興。さらに1591(天正19)年京都堀川七条に寺地を与えられ、本願寺は移転しました。顕如上人没後、一度は教如上人が本願寺を継ぐも、秀吉より隠退処分をうけ、弟(三男)の准如上人が継職されました(現在の西本願寺:浄土真宗本願寺派の本山)。
しかし、その後も教如上人は活動を続け、1598(慶長3)年秀吉没、1600(慶長5)年関ヶ原の戦いを経て、1602(慶長7)年京都烏丸六条・七条間の地を徳川家康から寄進されます。1603(慶長8)年上野国妙安寺(現在の群馬県前橋市)から宗祖親鸞聖人の自作と伝えられる御真影を迎え入れ、同年阿弥陀堂建立。1604(慶長9)年御影堂を建立し、ここに新たな本願寺を創立しました。これが当派の本山である「真宗本廟」の成り立ちであり、第12代教如上人を「東本願寺創立の上人」とする由縁であります。
江戸時代の東本願寺は、創立時における家康との関係もあって徳川幕府との関係は良好であり、また、寺院と門徒の間には、寺檀関係(檀那寺と檀家の関係)による結び付きがありました。その間、火災により四度にわたって焼失を繰り返しましたが、そのたびに全国門徒の懇念により、再建が果たされてきました。明治時代に入ると、新政府による神仏判然令(神仏分離令)、廃仏毀釈(仏教弾圧)の動きが仏教諸宗にふりかかり、東本願寺も苦境に陥ります。さらに幕末の戦火で両堂を失っていた東本願寺でありましたが、厳しい財政状況のなか、あえて新政府への協力を惜しまず、また全国の門徒による多大なる懇念により財政再建が果たされ、明治の両堂再建が成し遂げられました。しかし、一方で教団は、江戸時代の封建制度の流れを汲む体質を残したまま、近代天皇制国家のもと戦争に協力していくことにもなったのであります。
そのような中、当派の僧侶である清沢満之(1863~1903)は、教団の民主化と近代教学の確立を願い、宗門改革を提唱し、数多の教学者と聞法の学舎を生み出していきました。この潮流は、1962(昭和37)年に「同朋会運動」として結実し、爾来、当派の基幹となる信仰運動として、半世紀以上にわたって展開しています。
ただし、こうした「同朋会運動」の潮流は、始めからすべての人たちに受け入れられた訳ではありませんでした。1969(昭和44)年に惹起した「開申事件」を契機に「同朋会運動」の理念に抗する勢力により、後に「教団問題」とよばれる様々な課題が顕在化していきます。当時、東本願寺の歴代は、法主(法統伝承者)・本願寺の住職・宗派の管長(代表役員)の3つの職を兼ね絶大な権能を有していましたが、その力を利用しようとする側近や第三者により、東本願寺が私有化され、数々の財産が離散するという危機に瀕しました。
また、数々の差別問題も惹起し、旧態依然とした教団の封建的体質が白日のもとになっていきました。
「教団問題」による一連の騒動は、教団に属する一人ひとりに、真に宗祖の教えに適う教団の在り方を根底から問い返す機縁となりました。やがて教団の本来化を願う声が結集し、1981(昭和56)年、当派の最高規範である「真宗大谷派宗憲」が全面改正され、教団存立の本義と、それに基づく教団運営の基本理念が確かめられました。
爾来、親鸞聖人の教えをいただくものとして、一人ひとりが信心に目覚め、混迷する現代社会に人として本当に生きる道を問いかけていくことを課題として歩み続けています。