正信偈の教え-みんなの偈-

信ずる心

【原文】
速 入 寂 静 無 為 楽
必 以 信 心 為 能 入

【読み方】
すみやかに寂静無為じゃくじょうむいみやこることは、
かなら信心しんじんをもって能入のうにゅうとす、といえり。


 親鸞聖人は、前回の二句に引き続いて、さらに、法然上人のお言葉を取り上げられて、その教えを讃えておられます。
 前回の二句は、「還来生死輪転家げんらいしょうじりんでんげ 決以疑情為所止けっちぎじょういしょし」(生死輪転しょうじりんでんの家に還来かえることは、けっするに疑情ぎじょうをもって所止しょしとす)ということでありました。これは、法然上人の『選択本願念仏集せんじゃくほんがんねんぶつしゅう』に述べられている「生死しょうじの家には疑いをもっ所止しょしし」というお言葉に基づくものでありました。
 迷いによって生ずる苦悩(生死)に流転るてんするという状態に、私たちが、いつも止め置かれるのは、それは、私たちの心にはたらく疑いによることである、と教えておられるお言葉です。
 それでは、どうすれば、生死に流転するという苦悩から離れて、本当の安楽に到ることができるのか、そのことを、今回の二句に示しておられるのです。「速入寂静無為楽そくにゅうじゃくじょうむいらく 必以信心為能入ひっちしんじんいのうにゅう」(速やかに寂静無為の楽に入ることは、必ず信心をもって能入とす、といえり)と述べてあるのです。
 「といえり」というのは、「法然上人が仰せになった」ということです。本当の安楽の境地には、疑いのない信心によって、必ず速やかに入ることができるのだ、と法然上人は教えておられる、ということです。
 ここに言われています「寂静」も「無為」も、いずれも「涅槃ねはん」という言葉と同じ意味の言葉です。「涅槃」は、インドの「ニルヴァーナ」という言葉の発音を漢字に写し取って表記したものです。
 人が悩んだり苦しんだりするのは、自我へのこだわりや、飽くことのない欲望など、さまざまな煩悩が原因であるとされています。その煩悩から離れて、もはや煩悩に乱されなくなった静寂な境地が「涅槃」なのです。このため「涅槃」は「寂静」と訳されるのです。また、煩悩を離れたまったく静かな「涅槃」の境地は、凡夫が日ごろ為していること、また為し得ることをはるかに越えた世界であることから、「無為」と訳されているのです。
 「寂静無為の楽」といわれていますが、それは、自我へのこだわりなどを離れた、「寂静」であり「無為」である「涅槃」こそが、本当の安楽である、ということです。私たちは、「苦」の反対が「楽」であると思いがちですが、釈尊は、そのような「楽」は、次の「苦」の原因となるだけであって、本当の安楽は、私たちが感ずる「苦」と「楽」を越えた静けさであると教えておられるのです。私たちが思う「苦」も「楽」も、「一切は皆苦なり」と教えられ、その苦の解決を「涅槃は寂静なり」と教えられているのです。
 親鸞聖人は、「寂静無為の楽(らく)」を「寂静無為の楽(みやこ)」と読んでおられますが、それは、法然上人が『選択本願念仏集』に「涅槃の城には信を以て能入と為す」と述べておられることによると思われます。「涅槃の城」に対して、「寂静無為の楽(みやこ)」つまり「涅槃の楽(みやこ)」としておられるのです。
 また、中国では、古くから洛陽という都市が、永らく都城として栄えてきました。ところで、都である洛陽の「らく」と、涅槃である安楽の「らく」とは、発音が共通していますので、安楽と洛陽を重ね合わせて、「楽(みやこ)」と読んでおられるのであろうかと考えられるのです。
 前の句では「疑情をもって所止とす」とありましたが、今の句では「信心をもって能入とす」となっています。この二句が対照となっているのです。「疑情」の反対が「信心」です。真実よりも、自我を優先させることによって、真実を疑うこころが生じますが、その疑いの情がないことが、まことの心なのです。
 また、「所止」と「能入」が対照です。「所」は受身を表す文字で、「所止」は、とどめさせられる、という意味になります。「能」は能動を表す文字でありまして、「能入」は、入って行くことができる、という意味になるのです。
 「疑いの心によって、迷いの苦の繰り返しの中に止めさせられ、」「信心によって、本当の安楽に入ることができる」という関係が述べてあるわけです

大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘

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