正信偈の教え-みんなの偈-

天親菩薩

【原文】
天 親 菩 薩 造 論 説
帰 命 無 碍 光 如 来

【読み方】
天親てんじん菩薩、ろんを造りてかく、
無碍むげこう如来にょらいみょうしたてまつる。


 親鸞聖人は、念仏の教えを正しく伝えられた七人の高僧の徳を讃えておられます。この方々の教えがあったからこそ、ご自分のところにまで、間違いのない念仏が伝えられたと喜んでおられるのです。
 「正信偈」には、七高僧お一人お一人がどのようなお方であったのか、そして、どのような教えを後の世に伝えてくださっているのか、それを簡潔に述べてあります。その最初は、これまでに見ていただきましたように、龍樹りゅうじゅ菩薩でありました。そして第二祖として、今回からみていただく天親菩薩のことが述べられているのです。
 天親菩薩は、龍樹大士からおおよそ二百年ほど後に、北インドに出られました。西暦四〇〇年ごろに生まれられて、四八〇年ごろに亡くなられたと推定されています。それは、釈尊の時代から数えて、おおよそ八〇〇年ほど後のことです。
 「天親」という呼び名のほかに、「しん」という呼び方もされています。浄土の教えの伝統では、通常「天親」とお呼びしていますが、一般には、どちらかと云えば、「世親」という呼び方の方が多いように思われます。
 釈尊がお亡くなりになって、一〇〇年ほどしますと、仏教は大きく二つの部派に分かれました。そして時代とともに、さらに分裂が進み、天親菩薩が出られたころには、いくつもの部派が林立していたのでした。それぞれの部派では、釈尊の教えを誤りなく、正しく伝承するために、教えの緻密な理論化がそれぞれに進められ、壮大な教義学が発達するようになりました。
 天親菩薩は若くして出家され、当時、北インドのカシュミールという地域に栄えた部派に所属され、その部派の学問をきわめられたと伝えられています。教義の探求に大成功をおさめられ、伝統のあるその部派を代表する学僧になられたのでした。
 ところが、伝統仏教をよりどころにしておられた天親菩薩は、実兄のじゃくという人から手厳しく批判されたのでした。そしてお兄さんから説得されて、部派の仏教を捨てて大乗仏教に転向されたのです。
 伝統仏教では、自分独りが煩悩から離れて阿羅あらかんという聖者しょうじゃになることを理想にしておりました。それに対して、お兄さんの無著は、釈尊が願われた通り、すべての人びとと共に、釈尊のような仏(目覚めた人)になることを目標とする、大乗の精神をよりどころにしておられたのでした。
 天親菩薩は、説得により自信を失い、これまでの非を痛感されたのです。そしてお兄さんから教えを受けて大乗を学ばれました。しかし、天才的な学僧であり、ご自分の実力で教義学の奥義をきわめて来られた天親菩薩にしてみれば、これまでとは根本的に異なる大乗の教えによって、釈尊が願われた、その願いをきちっと受け入れることは容易ではありませんでした。また、どれほど深く学んでも、大乗の精神を体現することの困難さを痛感されるばかりだったのです。
 そのような挫折のなかで、天親菩薩は、『仏説無量寿経ぶっせつむりょうじゅきょう』の教えに出遇われたのです。つまり、自分の実力で仏になろうとするのが大乗仏教だと思い込んでおられたのに、実はそうではなくて、阿弥陀仏が願いとされた、本願に素直に身をゆだねることこそが、釈尊が願われたことであり、それこそが大乗であることに気づかれたのでした。
 そこで、天親菩薩は、『仏説無量寿経』の教えを自分はどのように受け止めたのか、その大切なところを「論」としてまとめられたのです。それが『浄土論』という著作になったのです。
 「正信偈」には、「天親菩薩、論を造りて説かく」とありますが、それは、天親菩薩が浄土の教えに帰して『浄土論』を著わされたことを指しています。そして、次の句に「無碍光如来に帰命したてまつる」と詠われていますが、「無碍光如来」というのは「阿弥陀仏」のことですから、『仏説無量寿経』によって阿弥陀仏の本願に目覚められ、本願をよりどころにされた天親菩薩の信心の内実が表明されているのです。

大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長 古田 和弘

< 前へ  第40回  次へ >