宗祖としての親鸞聖人に遇う

真宗教証興片州

(義盛 幸規 教学研究所助手)

タイトルに掲げた句は「正信偈」源空讃の中の一句である。「〔本師源空上人が〕浄土真宗の教証を片州日本に興してくださった」という意である。片州とは辺州と同義で、端的にいえば「世界のはての島」。宗祖が生きた鎌倉時代の日本においては、世界の中心は中国であり、その西域にインド、東のはてに日本があるという地図が宗祖の頭の中には描かれていたと思われる。だから、宗祖における「三国」とはインド、中国、日本であり、浄土真宗の教えが、世界のはてである片州日本にまで届いたことのよろこび、そして他ならぬ師法然上人がそのお仕事をしてくださったことの感動を宗祖はうたにされた。
思えば、宗祖は「いなかのひとびと」のためにたくさんの著作やお手紙を書き送り、念仏弘通につとめられた生涯であった。ここにいう「いなか」もまた、都に対する辺鄙な場所であって前に記したのと同様に「はて」である。すると片州、つまり「はて」であることが真宗興隆の大事な要素だったのではないだろうか。
二〇〇九年、神戸女学院大学教授の内田樹氏が『日本辺境論』を上梓された。この著書には、大谷大学で行われた大拙忌の講演内容が含まれており、ところどころに宗祖に関する文章が織り交ぜてある。その中でも私が注目したのは、

私たち辺境人〔日本人〕にとって、外来の制度文物は貴重な資源です。一粒も無駄にすることが許されない。それゆえ、最大限の開放性を以て外来の知見を受け容れなければならない。(『日本辺境論』)

という箇所である。宗祖もまた、新たな仏教文献や思想、外来の知見を先取りすることを大切な営みとしていたのではないだろうか。そしてその新しいものを取り入れることにためらいがなかったと思われる。
内田氏の文章を参考にして、真宗が興隆するのは「片州」であり「いなか」である必要があったのではないかと私は推察する。世界の「はて」である片州日本だったからこそ、また辺鄙な「いなか」だったからこそ、浄土真宗は興隆したといえるのではないだろうか。
辺境に生活する「いなかのひとびと」だからこそ、本当の宗教に触れる数少ない機会を逃すわけにはいかなかったし、新たな知見を積極的に取り入れていかなければならなかった。それは世界の中心であった中国であったり、日本の中心であった都においては醸成されない姿勢だったかもしれない。そういった数少ないチャンスをものにせんとする緊張感によって、片州日本・いなかのひとびとたる「辺境人」に浄土真宗の教えは受けとめられた。
真宗の教証は片州にこそ興るし、また興るように開教していくことが門徒たる私の仏事である。その時に忘れてはならないのは、私自身が「いなかのひとびと」であるという自覚であると思う。

(『ともしび』2010年4月号掲載)

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