宗祖としての親鸞聖人に遇う

如来が出興する「世」とは

(藤波 法英 教学研究所嘱託研究員)

如来所以興出世
唯説弥陀本願海(聖典二〇四頁)

―釈尊がこの世に生まれ出られたのは、ただ阿弥陀の本願海を説くためである―?と『正信偈』にはっきりと述べられている。それが親鸞聖人から釈尊へと向けられた眼差しであり、敬いである。この二句には『大無量寿経』を通して釈尊の教えに直に触れ、本願に帰した仏弟子としての自覚が顕わされていると聞かせて頂いた。

親鸞聖人が生まれた時代とは貴族と武家との政権争いによる動乱期であり、さらに飢饉や疫病によって都には死者があふれ、死臭が鼻をついたという。それはまさに恐れと不安に満ちた時代である。「死」がむき出しにされ、同時に「死」に迫られての「生」がむき出しにされていた世界だったといえよう。親鸞聖人にとって、如来が出興すべき「世」とは釈尊在世時代の過去の出来事ではなく、まさに親鸞聖人が生きた「その時」の事に他ならない。

さて、親鸞聖人の生まれたそのような時代からおよそ八〇〇年以上が過ぎ、今を生きる私たちは便利で快適な生活が送られるようになった。しかし、言い換えれば「便利で快適」な時代とは「死が見えない」時代とも言えないだろうか。やはり人間にとって死とは何事にも代えがたい恐れを孕み、私自身、死を遠ざけたところに幸せがあると思っているのである。そして、死から離れた幸せをこそ頂点として、生活の進歩と向上をさらに求め続けているのだ。その先に本当の満足はあるのだろうか。

今年の五月、臓器移植法の改正に伴い様々な議論が交わされ深く考えさせられた。そもそも臓器移植とはかつては夢のような話だったのが「出来る限り長く生きていたい」、或いは「なんとか生き長らえてほしい」、そういう素朴でありつつも切なる願いを受けて医学は発達し、高い医療技術を我々は手に入れた。そして、臓器移植が夢の事ではなくなったのだ。実際に生きた臓器が求められる現場からは、違った意味で「死を乗り超え」ようとしていることの強い意志が表われているように感じる。そしてそれが科学技術を手に入れた人間の必然性であるともいえる。

私はこのことを書いて医学や臓器移植についての善し悪しを言及したいのではない。ただ、生きた臓器がやりとりされる時代を生きる者として、死を遠ざけ、生のみを求め続ける人間の姿がさらに際だって見えてきたと感じるのである。

これらのことを合わせて考えてみると、釈尊在世の時代、親鸞聖人在世の時代、そして私たちが生きている今と時代は全く違っているが、死をめぐる混乱は何一つ変わっていないといってもいいだろう。だからこそ「今、現に在して」法を説きたもう如来が出興すべき「世」とは「常に」なのだといえる。今こそ、釈尊の声に耳を傾ける時だと確かめておきたい。

(『ともしび』2009年10月号掲載)

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